昭和46年10月08日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に三代様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ、人間は、身代が出来たり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れる、神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく出るくぎは打たれる、よく、頭を打つというが、天が頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが、油断をすな。慢心が出るとおかげを取はずすぞ。」

 頭を下げる事を忘れる、頭を下げることを笑うたりする、教祖様の又の御理解にこう言う御理解が有ります、世が開けると言うが開けるのではなし、めげるのぞ、そこで金光が世界を助けに出たのぞ、とお言葉ありと、世の中が開けると言うけれども、開けるのではない、めげるのぞとおっしゃる、そこで金光が世界を助けに、この世に金光が出たのぞと、世の中が開けた開けたと言うのは、開けるのじゃないめげるのだと、確かにこれはそうだと思いますね。
 人間の知恵力が言わば進んで本当に人間の知恵力と思われる程しのところにまで、人間が進んだ、世の中が開けた、けれどもそれは開けたのではない、めげるのじゃ、とそこに例えば公害問題なんかある訳です、確かにめげたんですね、めげて行きよるんです世の中が、そこで金光がこの世に出たのぞと仰る、此処にどうでも金光教が誕生しなければならない訳がそこにある。そこで私がここ一二年申しております様に、本当に和賀心時代と言うものがこれから創造されて来ると申しますかね。
 和賀心時代と言うものが出来ねばならぬ、又和賀心時代を拡げて行かねばならないと、言う事になる訳です、人間が人間の知恵力で自分の首を絞めて行く様な結果になった、そこでこれは一寸おかしいぞと、言う事になりそこで心と言うものを大事にせなければならん事に気が付いて、まあ来つつある訳です。だからその心と言うのはどう言う心の状態にならなければならないかと言うと。只心心だけではいけない、只最近では交通事故が余りにも多い、もう交通戦争と言われる位ですから。
 まあ昔の人の様にわらじばきでどこからどこまで、膝栗毛で行こうと言った様な運動があっておると聞きました、歩け歩けと言うのですねしかも車なんかの通らない所を、とにかく歩く確かに色々便利にはなりましたけれども、例えば久留米まで参りますでも一日がかりでわらじばきで行って帰って、例えばお参りでもそうでしたです。昔はそうでしたけど今では久留米当りからは、一寸お参りして来ると参って来ております。
 昨日総代会か゛例会が終わりましてから、昨日は丁度共励殿を使っておりましたから私の控えで致しました、ところが向こうの廊下のひさしとこちらの廊下の合間から、お月さまが拝める、私は昨日の朝はじめて此処へ三時半に出て参りましてから、廊下を通る度にその、二三日前が中秋の名月でしたがね、けどまだお月さんを一遍も拝んでないから、廊下からこう見て見ますけどお月さまが拝めんのですよ。
 で昨日私はじめて、脇殿の前に出らして頂いて、丁度中天に懸かっておる、お月さまを拝まして頂いて、それは本当に清らかな、すがすがしい本当に拍手しなければおられない様な、お月さまでした、でそのこともありましたものですから、ちょうどそこから総代会が終わったけ月見しょうかと言う事になって、それから客殿の前の広い庭に、茶道具を庭に出さしましてね、あそこに緋毛氈を敷いて、それから月見の宴じゃないですけど、まあ月見をさして頂いた。
 総代さん方ばかり、本当に段々お月さまと言うよりも、月の世界と言う私共がなにか一つの神秘的な見方をしておった、それがもうこの頃はあそこにもう人が行ける様になった、高芝さんじゃないけど、もうあそこには人間がいって小便しとるですよと、確かに言われて見ればその通りです、だからそこを拝むてんなんてんと言う事になって、段々参って参りましたが、成程世界がめげて行きよるのを感じました、だからこの世に金光が出た、今日の御理解から言うと頭を下げる事を忘れて来た。
 もう月の世界に人間が行って小便しよるあげんところを何拝むかと言う事になってくる、訳ですよ、此れは一つ一つのお星様でも同じ事、夜空にキラキラと輝いてござる、お星様又はそれこそ中天高く上がって御座るお月様をね、拝ませて貰うと言うそれは、神様の姿ではないかも知れません、例えば神様神様と言うても、御社の中には御幣か鏡かしか入ってないんだと、こんなもの何拝むかと言うのと同じ事であります。
 そう言う生き方で参りますとなら神様ですらこんなもの何拝むと言う事になって参ります、言うなら金光大神は所謂天地そのものを拝まれたとですからね、その一部であるお月様を拝んでいけない筈がない、いや拝まなければならないのです、それを言わば人間がここでは身代が出来たり、先生と呼ばれるようになると、頭を下げる事を忘れると言うこんな風に言うておられますけども。
 人間が少し知恵が出来たり学問が出来たりすると、今迄拝みよったものでも、あんなもの拝む価値はないのだと、頭を下げる事を忘れると、今日の御理解から頂くとそう言う事になるのじゃないでしょうかね、私のすべてのものの前に頭を下げさせて、頂けると言う事は只頭をペコペコ下げる事だけではない、お月様を拝むと言う心は、すでに自分の心を拝んでおるのも同じです。相手を拝む、人を拝むと言うのも、人を拝んでおると言うその心は、自分自身を拝んでおる姿でもあるのです。
 もう自分の周囲には根性の悪か奴ばかり、もうさばけん奴ばかり、碌な奴はおらんと言うときには、自分自身の心の中が碌なものじゃない事を知らなければいけませんね、私どもの周囲の総べてが拝める心、それは私自身の心も拝めておる時ですだから神様を拝むと言う事はそう言う事だと思うです。神様の前で心からお礼を申さして頂いておる心と言うものは、もう自分自身がいわゆる有難い時です、自分自身が有難いその有難い心を言うならば、神様もまた又拝んで下さっとるときです。
 拝み拝まれるそこにいわゆる交流と言う事が言えるのです、神様に通う人とはそう言う人なのです、神様と対話が出来るとはそういう人なのです、神様を心から崇められる、心から拝めれる、そのお月様を拝む、お月様を崇める、その心が尊いのです、成程教祖様は百年前に、世の中は当時でも開けた開けたと言うたのでしょうね。そしてこの様に開けて来た、開けて来た、開けたかの様に見えるけども、あれは開けたのではなく、あれはめげるのぞと仰った。
 めげる壊れると言う事、行くところまである意味で人間がやらして頂いて、もう月の世界だけではない、他の星の世界でも行く計画があると言う事を聞きます。行けるようになるでしょうきっと、けれどもそれはいよいよ世界がめげて行くばかりです、いよいよそう言う頭の進んだ世界になりますと、人間この世の中には、言うならば頭でっかちの頭百斤尻五斤と言う様な、人間ばかりがうようよするごとなるでしょうね、もう足が地に付かない事になって来る。
 ここんところは本当に私ども信心させて頂くものがここんところを分からせて貰うて、本気で愈々それは月の世界に行って見て、月の石を拾って来て、これが月の実体だと言って見せて貰ってもです、だから今まで拝みよったものが、もう拝めんようになったと言うのではなくて、矢張り拝まして頂くと言う事は、どんなそれが世界であろうが拝まして頂くその心を、育て行くのが人間の幸せなのである、そこに所謂まっとうな世界がある、幸せな世界がある、どこにおっても有難い。
 どこに居っても拝む心でいっぱいである、そう言う心の状態になるときにです、世に三宝様を踏むな三宝様を踏むと、と仰っておられるが、眼が盲れる様な事もなくなる、信心させて頂いて、信心させて頂くものは、肉眼をおいて心眼を開けとこう仰る、心の眼を開かんから拝めなくなって来るのである。心の眼を開くとそこに難儀と感じておったその事すらが、神愛とはっきり見極めることが出来る。
 肉眼で見るとそれは何々と言う病気だ、何々と言う難儀であるけれども心の眼を開かせて頂いたら、それは難儀ではない、神様がもうそれこそ憎うてこの手が当てられりょうかと言う、この手である、神様の神愛のあらわれである、そこで私どもは矢張りどうでも肉眼をおいて心眼を開かして頂くほどしの、おかげを頂かねばならぬ、心の眼を開かせて貰わねばならん、心の眼を開かせて貰わんから、肉眼で見るから三宝様を、三宝様と言えばここでは穀物の意であります。
 食べ物御飯粒など踏みつけてはいけない、穀物、三宝様と言うのは穀物の意ですけど、私は三宝様と言うのは穀物だけではない、いま私が申しております、或いは石のこけらと言うものでも、いわゆる三宝様、お月様なのです、例えて言うなら、難儀な問題なら難儀な問題でも三宝様である。だから三宝様を踏みけりする様な事では、おかげにならん、だからその難儀な問題をよくよく見せて頂くと、心の眼を以て見せて頂くと、それは神様の御心である、いわゆる神様の働きである。
 ですからその御心であり御働きである事を私共は合掌して受けて行く事に、三宝様を踏む様な事のない、おかげになって来る、眼が潰れると言うのは肉眼の目が盲れるのではなくて、心の眼がいよいよ盲れてしまう開かぬ事になる、信心によって少し道理が分る、少し開きかかる、それが三宝様を踏み付ける様な事をする、難儀な問題を難儀な問題として見る、私共が全てを拝まして頂くと言う事、自分の周囲の人を拝む、事柄を拝むと言う事はです心の眼を以て知らせられる、分からせられるから拝むのです。
 訳なしに拝むのではない、その拝む心が尊い、いわゆる難儀ではない、難儀様である、難儀様として頂く、難儀様として拝む、そこから拝み拝まれる世界が生まれて来る。とにかく出る釘は打たれる、頭を打つと言うが、天で頭を打つというのが一番恐ろしい、天は高いから頭を打つまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりする事はないが、油断をすな。慢心が出るとおかげを取りはずすぞ、天で頭を打つ、今の世界は天で頭を打っておるのである。
 もう頭が天につかえておるのである、と言うほどに図に乗っておるのである。そこにあるのが公害である、そこに気付かせて頂いておるのが心だと言う様に、人間は心を大切にしなければ幸せになれないぞと、例えて言うとどんなに人間が金殿玉楼に住んだからと言うて幸せではない、金の山を積んだからと言うて幸せではない、人間の幸せは心にあるのだと、まあ気付いて来た、教祖様が仰る様に開けたのではない、めげて来たのに気づいて来た、行きづまりを感じて来た、そこで心だと言う事になってきた。
 成って来たと言うのではない、成って来つつあるのである、だからそこんところに一日も早く気付かせて頂いて、心を大切にする術と言うか、心豊かにいよいよ美しくして行くと言う事に、本気で気が付くと言う事が助かると言う事になる。頭を下げる事を忘れると私どもが少し力が出来たり、一人歩きをする様になると、如何にも自分で力がある様に思ったり、又自分で手足がのんだ様に思うて、そこに亡恩の生活が始まる、恩を忘却する、子供との親子の問題でもそうである。
 自分で育ったごと思うておる、本当にそこには親の並々ならぬ苦労苦心と言うものを、忘れていわゆる幼少の時を忘れて親に不幸をする、言うならば当然頭を下げなければならない物の前まで、頭を下げる様な事をしなくなって、おかげの頂けるはずがない、当然お礼を申し上げねばならない事にお礼を申しあげない、頭を下げる事をわすれる、そこで行きつまって困って自分が親になって見て、初めて気がつく、だから自分が親になって見て気が付くじゃ遅い。
 だから今こそ私どもが気づかせて頂いて、おかげを頂かして貰わんならん、またその子供がまた親になって見にゃわからん幸せは一つもない、親になってからしか分からん、もうその時にはおかげは受けられない。 言うならば親が亡くなってども、親孝行しようと思っても遅い、もう親はないと言う事になる、だから信心は、そこのところを分からして頂く、例えば今日は私どものすべての周囲、言わばお月様の世界に、私ども人間が行けれる様になった。
 あれはもうマンマンしゃんではない、石の固まりだと今まで拝みよったものが笑う様に、けれども私どもは神秘的な鏡の様なお月様を見たとき、自ら頭の下がる様な心の状態こそが、信心させて頂く者の心だと、思わず拍手せねばおられんのだと、そう言う心の状態で私どもが例えば親を見る、自分の知恵やら力やら才覚で成長のおかげを、頂いたのではない、親が此処まで育ててくれるのにどこまで苦労があったか苦心があったか分かりません、当然お礼を言わなければならない。
 当然大事にせなければならない者にすら、頭を下げる事を忘れる、それが自分に才覚が出来るとそうだと、人から先生と呼ばれたり、身代が出来たりすると、頭を下げる事を忘れると言う様に、私どもが少し世の中の事が分かって来る、少し知恵が出来て、一人歩きができたら、もう親のおかげなんか思はない、おかげなんか思はんどころじゃない、親にそむく、それな無理なこと、言うなら子供の方から、親に縁切るぞと言うたり、とんでもない話しである。
 いわゆる先生と言われ少し金が出来たと同じ事、知恵が少し出来た、自分で仕事ができた自分で一人で食べて行けると思うたら、もう親の事すらそう言う事になって忘れてくる、本当に私は親のおかげは親のおかげとしてわからして貰うて、それはどんなに頑固な親かもわからない。それは確かに月の世界が石の塊であるかも知れない、しかも人間が行ける様になった世界でもある、しかも人間があそこで小便しよるのに何拝むかと言う様な、親でも矢張りそれはよくないところが有るかも知れない。
 けれどもよくよく考えてみると、言うなら幼少の頃を忘れると仰るが、自分の幼少の頃を思うて見てそして親の恩に報いると言う生き方、いわゆる頭を下げると言う行き方、それが信心です。恩に報いる生活段々成長さして頂くに従って、そう言う心がめげてくる、世の中が段々開けて来るに従って、世界がめげて来るそこで世の中に金光が出なければならない、金光が表れねばならない事になったのぞと、金光様教祖様が仰っとる、だから金光様はそこを教えて下さる。
 自分が子供を持って見て親の恩が分かる様な事では遅い、自分が子供を持って見て、神様の思いが分かるなら未だしもの事、自分の子供を持って見て親の恩が分かる様ではおそい、私は子供を持つ前に、子供を持つと言う事は実際に子供を持つと言う意味じゃないですよ、例えば信心を頂く何のために教祖様が御出現なさったか、金光がこの世にでなさなければならなくなったか、それはめげておるものをいわば修繕して下さるために、金光教が生まれたのだと。
 いうならば私共が人間関係特に親子の関係であっても、親の上に欠げておる思いというもの、親に対する思いの欠けておるところをです、教えて下さったのですからそこのところが繕はなければ、お道の信心をしておる値打がないのです。それが従前なものまっとうなものになって来るとき、私どもがすべてのものを拝める様になるのです、お月さまが勿論拝めるだけでない、人間の誰彼れを拝めるだけでない、もう自分の周囲の全ての事からも拝めれる様になる。
 今まで難儀と思うておった難儀でも難儀さまのおかげと言う事になって来る、そう言う全てが拝める時に、すべてから拝まれる私と言う事になる、そこには拝む神様又神様から拝まれる氏子である、言わば信じ信じられる世界がひらけて来る、成程神様を拝む心その心が助かる心、そこんところを私どもは一つ気付かせて頂いて、一切が一切合切が合掌して拝める、おかげ、三宝様を踏むどころではない三宝様を押し頂いて、難儀様を押し頂いて、頂いて行くと言う行き方、
 そこに一切合切が有難いなら、一切合切がおかげになってくると言う、それこそ願って止まない世界がやって来る、いわゆる一切合切が有難く受けられたら、もう金光教はこの世は極楽だと言う世界が開けて来る、それはもう本当に何とも言えませんね、昨日も私総代会が終わってからお月見させて頂こうと言う事になったらね、もう本当にお月見さして頂くまず雰囲気が生まれて、そこにはちやんと、こんなものまで集まって来とったかと言う様な、ものがあって。
 例えばお神酒を頂くならお神酒に対する魚が集まって来ておる。そこに奉仕してくれる人達がある。ああ外で少し冷えたからならお家の中でお熱いものでも召し上がれと言うて、熱いものでも造ってちやんと出してくれる、もうそこんにき、ああせろこうせんならんと言うことではない、もう本当にお月様を拝んだおかげで、こう言う有難い雰囲気が生まれる、雰囲気が生まれて来る、私ども昨日思いました、お月見をさして頂いてまた客殿に戻らして頂いて、お茶を頂いたり果物を頂いたりさせて頂きながらね。
 こう言う世界が極楽だと私は思うた、もう百味の御食である、思うものがそこにあるのでなくて思う以上のものがそこにある、これが極楽でなくて何であろうかと思う、人はもう拝めん様になったと言う、お月様を拝んでいる、信心ないものがそれは難儀と言うて蹴散らかすものを私どもはそれを、心の眼をもって見て此れが難儀様であると言う事が分かって、難儀様を押し頂く心になるとなる程、金光教はこの世で極楽と仰るおかげが受けられると言う事を思います。
 今日は少し人間が知恵が出来たり致しますと、今まで拝みよったものがあげなものば拝んじゃおかしいと、昔のものをお月様を拝む者の気が知れんと言う事になって来る、いわゆる此処では先生と言われたり信者が出来たりすると、頭を下げる事を忘れる様になる、少し人間の知恵力が出来て来ると、今まで当然拝まねばならぬものまでおがまない、大切に尊ばねばならない親まで、粗末にする様な事になり果てて来る。それでは人間の幸せ、幸福と言うものは有りえない。
 いよいよ私どもが金光様がいわゆるこの世が開けて来ることを、めげると仰る、世界が開けて来る事をあれは開けてくるのと違ってめげるのぞと仰る、だから金光が出たのだと仰るのですから、私どもその教えを頂いて、めげておるところを補って行かねばならない。それを私どもがまず、自分の心の中に和賀心を頂いて、この世極楽の実績を上げてその実績をもってです、世界の市場に臨もう、和賀心と言う事を焦点にして、人間が生活して行く事が一番素晴らしいことを皆に伝えて行こうと言う事になって来る訳ですよね。
   どうぞ。